第一章 『北欧よりの訪問者』


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[ 黄昏の島の女神 ] or NEXT STORYor GRAPHIC(挿し絵)



  「うーん、よし!十月七日土曜日午後三時十五分、快晴!」

  

    薄い潮の香を含むそよ風の中で、柊克也は紺のブレザーを手に陽の光を吸い込む様に軽

   く伸びをした。

    大学一年目の最初の期末試験を、ほぼ満足の行く結果で終えた克也は、秋の連休を文化

   の香り高く過ごすべく、その初日に横浜の桜木町にある横浜美術館へと足を向けた。

    渋谷、横浜方面間を結ぶ私鉄東急東横線。その一方、横浜方面の終点にある桜木町駅。

   この桜木町方面は、現在の横浜都市開発のほぼ中心地点となっている。

    横浜の都市の発展は、横浜駅周辺と、関内付近の二極化の傾向が強い。この状況を改善

   し、双方を含む横浜港付近全体を巨大なメガロポリスと化すための壮大な構想の計画が

   『みなとみらい21』、通称MM21という名称を与えられ、行なわれている。両者の中

   間地点となる桜木町周辺が開発の主な対象となるのは、必然的なことである。

    一九八九年の横浜博と呼ばれた一大イベントの後塵を拝して、大々的に様々な建築物が

   着工され、折り返し時期となった一九九五年の今日でも、開発の渦中にある。

    横浜博の頃に建てられた公園、イベントホールを使った、横浜コスモパークや会議場等

   がそのまま使用されているのも多数存在する。

    中でも特に、耳目を集めるのが、ランドマークタワーと呼ばれる、地上七十階、高さ二

   九六メートルに及ぶ、商業と情報の複合化した近代的な超高層ビルで、末広がりになった

   部分に繋がった、地上五階は巨大な吹き抜けの大ショッピングセンターとなっており、こ

   の地を遠方から訪れる人々が、一度は足を踏み入れる所である。

    桜木町駅へと訪れた克也の周囲の人々の流れも、多聞に漏れず、整然として見えるほど

   の筋を巨大な塔へと作っている。

    同じ人の流れに添って歩いた克也は、ビルの手前で方向を転じ、道路を挟んで向かい側

   にある横浜美術館へと足を向けた。

    この横浜美術館は、年数回の割合でテーマ展示会を行なっているが、今回の催しは

   『北欧神話の美術展』である。北欧神話をモチーフにした、絵画、彫刻、装飾品の数々を

   展示している。

    芸術が発展するためには、政治の安定と芸術家達のパトロンの存在が欠かせないのは、

   歴史の流れも示すところであるが、この美術展の出品作の半数近くは、主催者の一人であ

   る、北欧の社交界に突如姿を現したという人物が、新進気鋭の芸術家を集めて作らせた物

   であると言われている。

    バブルと呼ばれた一時の見せ掛けの金膨れの時代に、日本人が芸術面の投資などせず、

   完成品を金にあかせて買いまくり、世界中の顰蹙と軽蔑とを浴びたのとは、やはり大きく

   違うと、克也ですら感ぜずにはいられない。

    克也自身は、美術、芸術にも関心があるが、どちらかと言えば、神話と言うものに興味

   があった。

    それは、彼個人の持つ非常にささやかながら異能な力が切掛けとなって、神話の中にあ

   る真実の存在の可能性を考えたからであった。

    かつて、ローマ帝国と言う国があった。この国は地中海沿岸の国々をほぼ完全に征服す

   るという歴史的な大偉業をキリスト誕生以前に完成させたが、この時にローマは国々を吸

   収するのと同時に、古代世界の持っていた様々な神話的伝説も受け継いでいた。

    ローマの軍隊は無敵を誇り、何者の掣肘も受けなかったが、宗教的には全く無防備で

   あったと言われる。このことは、紀元前四世紀に始まったギリシャとローマの同化の過程

   に顕著に現われている。

    ローマはイタリア最大の勢力としてギリシャの都市国家群と交流したが、当時成り上が

   りの国であった。

    ギリシャ神話の様に、ドイツのハインリッヒ・シュリーマンのトロイ遺跡発見からも明

   らかな、歴史的事実に基づいた伝説がないこと、神々や英雄を輩出した輝かしい過去のな

   いことに悩み、歴史家をして価値ある年代記の創造をさせた。彼らは努力の末、国の伝統

   をトロイヤ戦争に起源づけることに成功した。

    これは、ほぼ完全に調和の取れた伝説であり、この作成の際に古代の王族も神格化し、

   神々の領域にまで引き上げた。

    だが、この時の人物達の持つ特殊な力、数々の不可思議な道具は、本当に想像のみの産

   物であったのであろうか?自分ですらささやかながら持ち合わせているのに。

    克也の神話への好奇心はここに始まる。

    もちろん、一般的には神話とは、ダーウィン以後の社会に於ては、受け入れられるもの

   ではない。

    偉大なフランスの人類学者ミルチア・エリアデの言葉通り「神話を知ることは、物事の

   起源の秘密を学ぶことである。言い換えるならば、人はどのようにして物事が存在するよ

   うになったかを知るばかりでなく、それらを何処で見つけるべきか、また、それらが姿を

   消したときはどのようにして再現させるかを知ることなのだ」と言う範囲に留まる。

    幾らかの資料から、神話と言うものについて独学をした克也も、何も新しい事実が見つ

   からず、その意見に同調しかかっていた。

    しかし、その方向を百八十度変更させる事件が起こった。

    大学の合格発表の掲示板に自分の名前を見つけたその日、母校となる校舎内をぶらりと

   見物している最中に、二人の人物が「壁を通り抜けて」目の前に現われたのである。

    その時の克也は、驚きよりも喜びが勝った。

    彼は、目の前の男女を必死で引き止め、自分の力を披露し彼の前で起こった事の説明を

   求めた。克也は、そのまま彼らと共に彼らの家へと赴き、話を聞くことが出来た。二人は

   克也とは比較にならぬ程の力の持ち主であり、しかも、女性の方は魔法使いであるという。

    彼らは克也のはっきりして前向きな性格を好み、友誼を結ぶことを約してくれた。更に

   は、同様の人物がまだ存在していること、「力」の所持はトラブルを呼び込む危険と隣合

   わせであることを告げ、克也に体術の指導もしてくれるようになった。

    そうして、新たに落ち着いた気持で神話を調べていく事を決めたのが、約半年前の事で

   ある。

  

  

    美術館正面の噴水の脇を通り、入場料と引換にチケットを兼ねたパンフレットを受取っ

   て美術館へと克也は入った。

    この美術館は、かの有名な丹下健三なる人物の設計である。

    新宿の東京新都庁を設計した際には、多数の好意的とはいえない複雑な意見が飛び交っ

   たが、こちらの美術館についてはなかなか評判は良い様である。

    入り口を入ってすぐは、三階吹き抜けのグランドギャラリーになっている。ここでは、

   コンサートやファッションショーなどが行なわれることもあるという。

    美術に関する多数の資料もあり、情報ギャラリーや美術図書館等の施設も含まれている。

    中央の階段を登り、二階へと登りかけた克也の視界に銀色の光を絡めた人影が飛び込ん

   できた。正確には、階段から落ちてきたのであるが、克也の目には、飛び込んできたよう

   にしか写らなかった。

    間の悪いことに、驚いた克也自身も段を踏み外して堪えることが出来ず、一緒になって

   階下に転げ落ちる。

  

   「きゃっ!」

   「わわっ!」

  

    折り重なって床に伏した克也達を、館内にいる人々が何事かと覗き下ろす。

  

   「つーっ!」

  

    頭を押さえながら起き上がろうとした克也の背中に、重力以外の柔らかいものが制動を

   かけた。

  

   「うーん…」

  

    背の上の人物が身を起こした所であった。どうやら、大事ないらしい人物へ、克也は肩

   越しに声をかけた。

  

   「大丈夫ですか?」

  

    下になっている人間が、上にいる人間へ訊ねるには、いささか妙な言葉ではあるが、社

   交辞礼と言うものである。

  

   「ええ、私は…!きゃ!ごめんなさい!」

  

    言葉の途中で自分が、訊ねかけた人物の背中に乗っている事に気付いて、あわてて克也

   の背中から跳びのいた。

    背中の重石がなくなった克也は、しっかりと足跡のついたブレザーの埃を払いながら立

   ち上がった。

    ブレザーについている足跡は、どう見ても自分の靴の物であった。

    憮然として、ブレザーを見つめる克也に、おずおずと優しい声音で声がかけられた。春

   風のように耳に心地好い声であった。

  

   「あの、すみません。大丈夫ですか?」

  

    低くもなく、キンキンと響く甲高い声でもない、温かみのある声でかけられた言葉は、

   流暢な日本語であったが、声の主は日本人とは思えぬ容貌をしていた。

    先程、克也の目に輝きを送った、さらさらと肩から腰へと流れる長い銀色の髪、白磁を

   思わせる滑らかな肌、湖のような緑とも青とも言えぬ深い色をした瞳、花の蕾を思わせる

   可憐な唇。克也の美意識では、非の打ち所のない美人であった。淡いピンク色のブラウス

   の上から茶色のベストを付け、肩からショールをかけている。そのショールの上で、癖の

   ない髪がサラリと流れた。

    年は克也と変わらなく見えるが、外人の年令が、現在十九才、日本人としてさえ経験の

   浅い克也に判断できるはずもなかった。

    ブレザーの埃をはたきかけの手もそのままに、見とれる克也の前では、相手の女性も同

   様の状態で克也を見つめていた。

  

   「!」

   「!」

  

    二人同時に我を取り戻した。

    一瞬早く、直前の状態を思いだした克也の方が先に口を開いた。

  

   「あ、いや、こっちは大丈夫。そちらは?」

   「ええ、私は大丈夫です。失礼いたしました」

  

    やや頬を赤く染め、女性の方も礼を返した。軽く会釈をする姿も、さりげなく上品に克

   也には感じられた。

  

   「何かお詫びをするべきなのでしょうが、時間がないので失礼します。本当に申し訳あり

   ませんでした」

  

    美しい髪をゆらしながら、改めて大きめにお辞儀をすると、優雅に身を翻し、出口へと

   小走りに向かった。

    膝丈の紺のフレアスカートからすらりと伸び、黒いブーツに収まった美しい足にも見と

   れて、後ろ姿を見送る克也の視界で、その女性は、美術館の入り口付近に立つスーツ姿の

   大男へと近づいた。

    大男は、彼女とは対照的な外観を有していた。

    黒のスーツの下で、白のワイシャツが隆々とした筋肉の内圧に今にも耐えかねて、弾け

   とびそうに見える。

    短く切った金髪は立ち上がり、サングラスで覆われていない部分の顔は、ゴツゴツと骨

   ばっていて、への字に結んだ口は愛嬌などと言うものには程遠く、ボディーガードの様な印

   象を受ける。

    しかし、身に纏う雰囲気は、洗練されたものではなく、抜き身の剣のような危うげな精

   悍さを示していた。

    二人は二言三言話をし、外へと姿を消した。

    ドアをくぐる際に、女性の方がちらりと克也の方に視線を走らせた様に克也には思われ

   た。その時の、視線に込められた想いを克也は後々まで知る機会を与えられることはなか

   った。

    二人が去った後、砂時計の砂をたっぷりコップ一杯程も受けとめてから、克也は我を取

   り戻した。

  

   「うん!美しいものを見るという目的には、申し分ない出だしだ!」

  

    階段から転げ落とされた分を、しっかりと頭から排除して、そう言うと、克也は改めて

   階段を登り始めた。

    階上の部屋も、それほど人は多くはなく、ゆっくりと見て回る時間を得ることが出来た。

    最初のステージは、多数の像が立ち並んでいた。

    北欧の旧来の遺品と同じ、日本の土偶に似た象徴的な像の数々よりも、克也自身が好む、

   写実性を重んじたルネサンス期の流れを汲む像の方が気に入り足を向けた。

    彫刻家達が、技術と想像力とを総動員して作り上げたであろう像であった。

    緩やかな布地の服を纏い、背へとローブを流し、右手には巨大な槍を、左手には円形の

   盾を持ち、冠を頂いて立つ美髭の男神は、北欧の主神、神々の父とされるオーディンの像

   である。

    彼の右手の槍はグングニルと言う名で、決して標的を外さないという。神話の時代に闇

   の世界の妖精である、ドワーフ族のイーヴァルディの息子達が作ったとされている。

    その隣で、力を増すという魔法のベルトで止めた腰布のみを纏い、巨大な鎚を鉄の手袋

   をはめた右手で肩に担いでいる雄々しく逞しい男神は、北欧神最強の雷を纏う神トールで

   ある。

    右手に持つ巨大な鎚は、同じくドワーフ族であるエイトリとブロックと言う兄弟が造っ

   たもので、あらゆるものを壊すことが出来る。どんな遠くへ投げても必ず持ち主の手に戻

   り、また幾らでも小さくしておくことが出来たという。

    トールはオーディンの息子とされているが、もともとは、ギリシャ神話の絶対神ゼウス

   やヒッタイトの天候神に代表されるインド・ヨーロッパの雷の神のゲルマン版であったと

   言うのが歴史学上の通説である。

    アングロ・サクソンが三百年頃ヨーロッパ式の暦を受け入れた時、彼らは週の五番目の

   日をTHUNRESDAEGとした。これが現在の木曜日の英語の語源とされている。

    その隣には、一頭の猪を従えた、美しい女神像がある。豊かな髪を背に流し、ローブを

   纏うこの女神はフレイヤと言う名の、豊穰の女神である。ゆったりとした服の上からも、

   豊穰さを象徴していた豊かな肢体が窺える。この女神は、女神の中で最も美しく、主神オ

   ーディンも彼女に対し少なからぬ想いを抱いていたとされる。しかし、貞淑ではなく、従

   えた猪は自らの愛人の姿を変えさせた者と言われ、また、宝物を手に入れるために小人に

   躰を差し出したりもした。

    この神も、トールと同じく週の六番目の日を司る。

    更にその隣に鹿の角を手にして立つ大男がいる。これもローブを纏った美髯の威丈夫で

   ある。これはフレイヤの兄、豊穰の神フレイである。豊穰の神であると同時に犠牲を司る

   司祭でもあり、フレイへの供物は豊穰への祈りとなるとされている。

    フレイ神の手にはかつて、鹿の角などではなく光り輝く剣が握られていたが、美しき女

   巨人ゲルドを求めた際、それを自らの従者スキールニルに与えてしまったのである。その

   剣は神々の黄昏の際に、世界を焼き尽くす炎を産み出す、炎の巨人スルトの『劫火の剣』

   に抗し得る唯一の剣であったという。

    従者スキールニルの手に渡った剣の行方は神々の黄昏を経ても知れないとされる。

    更に続いて、北欧の神々やその従者であった人間達の姿が、思い思いの姿勢で、立ち並

   んでいる。

    オーディンの息子バルデル、チュール、海神エーギル、オーディンの妻フリッグ、裁き

   の神フォルセティ、そして、数々の妖精、魔狼フェンリルや、世界蛇ヨムルンガンドに代

   表される数々の魔物達が続く。

    次のステージは、装飾品や神々の所持していたという宝物が、並んでいた。金、銀、プ

   ラチナ、宝石類をふんだんに使い、美しい輝きにを放つ作品群は、ガラスのケース越しそ

   の美しさを主張していた。

  

    オーディンの槍『グングニル』

  

    トールの鎚『ミョルニル』

  

    フレイヤの『ブリーシングの首飾り』

  

    ヘイムダルの角笛『ギャルホルン』

  

    バルデルの『ドラウプニルの腕輪』

  

    等々、様々な精妙巧緻を極める細工の数々が並んでいる。

    その殆どが、黄金で出来ているというのは、神々が永遠なる美しい金属として、好んだ

   という事柄に由来しているのであろうと、克也には思われた。

    三番目の、そして、最後のステージは絵のステージであった。

  

   「はーっ…」  何度目かの感嘆の溜息を漏らしながら足を踏み入れた克也に、背後から声がかけられた。 「いかがですか?この美術展は」  振り返った克也の視界には、本日二人目の美しい女性がにこやかに微笑みながら佇んで いた。  その顔だちは、女性に対して記憶力の乏しい克也にも、近い過去の記憶として残ってい た。その、サイズにして、十分の一以下、美しさの表現力としては比較にならない程にま で縮小された写真が、パンフレットの中の主催者の欄に有ったのである。  名前をイコル・チューバルファという、アイルランドに本拠を持つ、宝石商を営む資産 家の女性である。彼女の庇護の下で、若い芸術家達が、今回の出展作品の多くを造ったの である。  克也は、声も発せず、目の前の女性に目を奪われていた。  本日二度目の事であった。  彼女の美しさは、彼女の下にいる芸術家達の力を持ってしても、越えるものは決して造 りえないと思われるほどのものであった。  大きくウェーヴを描き腰まで届く、それ自体が光を発しているのではないかとさえ感じ られる豊かな金髪、切れ長の目に吸い込まれそうな妖しさを備えた黒い瞳、気品を湛えた 高い鼻筋、真っ赤なルージュをひいた艶めかしい唇。  先程の女性とは対照的に妖艶さを持った美像である。  胸前で軽く組んだ腕の中に、金のネックレスに飾られた豊かな胸が埋まっている。  襟の一部から胸元が菱形に空いた白いシルクのブラウスを着て、その上に黒のハーフジ ャケットを纏い、同色のタイトスカートから伸びる美しい足を、やや交差させている。 「お気に召しませんか?」  重ねて訊ねられた甘やかな音色が、克也の呪縛を解いた。慌てて周囲を見回すが、近く に他の人はいない。 「え、俺?いえ!とんでもないです。感嘆していたんですよ」  芸術品以上に感銘をそそられたものがあるとは、とても本人を前にしては。克也の口か らは出ない。  またしても、流暢な日本語であったが、克也の記憶に日本語が国際公用語になったと言 う記憶はなかった。 「有難うございます」  女性は艶然と微笑んだ。 「私は今回の展示の主催者の一人でイコル・チューバルファと申します。よろしく」  イコルと名乗った女性は、克也よりやや高めにある目線から名乗り、克也の予想が正し いことを証明した。  かるく流れた身体に合わせて、イヤリングが輝きを変えた。 「凄いですね。ここにある作品の殆どはあなたが創らせたのでしょう?」 「いいえ。これらを造ったのは芸術家達の努力と才能ですわ。私は費用を出しただけです」  目の前の豪華な額縁に収まった油絵に視線を移しながら、克也の発言に対し、イコルは 穏やかにそれを否定した。 「すみません」  どうやら、自分の行為にたいして過分にして鼻持ちならぬ自賛をするタイプではないと、 好感を持て、克也も素直に謝罪した。 「いいえ、お気になさらないで下さい」  豊かな金髪を波打たせて振り返り、イコルは克也に微笑みかけた。  不思議な魅力を持つ女性であった。美しさもさることながら、一挙手一投足が魅惑の呪 文となり、見る者の心を絡め取るように惹き付けてゆく。 「どうでしょう。私で宜しければ解説いたしましょうか?出来れば感想なども聞かせて頂 きたいですし…。実は私はそれが、各地で展示会を開いた時の一番の楽しみなのです」  一瞬申し出の内容が理解できず、二度の瞬きの間相手に返事を待たせておいてから、 克也は喜んで賛同の意を示した。 「是非お願いします」 「では、こちらの絵から」  そう言って、イコルはミニのタイトスカートからすらりと伸びる足で、ハイヒールをリ ズミカルに鳴らしながら、大きな絵の前へと克也を誘った。 「この絵は、新進の画家、レムル・シュナイダーの作品で、北欧神話の始まりから終わり までを、九枚の絵にしています。九という数は、十進の最後の数であると同時に、北欧神 話の中では、重要な意味を持っている数です。今でも、スカンジナビア等、幾つかの国で はその魔的性質が信仰されています」  イコルはそう前置きをしてから、ゆっくりと歩を進め、歌うように北欧神話について語 り始めた。 「北欧神話では、燃え上がる氷塊と絡み付く火炎とが生命の始まりでした…」  最初世界は、南のムスペルという踊り狂う火炎の世界と、北のニヴルヘイムという氷で 固められ荒涼とした一面の雪で覆われた世界、そして、その間の、ギンヌンガガップとい う巨大な裂け目があるだけであった。  ギンヌンガガップにはニヴルヘイムからの水が流れ込み、毒の氷と白い霜とを産み出し た。この霜とムスペルから流れ込む熱気とが戯れあう中で、命が生まれ始めた。そして、 それが始まりの巨人ユミルと一頭の雌牛アウドムラの姿をとった。  アウドムラはユミルに乳を与え、自身は氷を食べていたが、その氷の中から一人の人間 が現われた。これが「美しきもの」ブーリである。そして、ブーリの息子ボルと、ベスト ラという巨人の娘の間に三人の男のみの兄弟が生まれた。この末弟が、北欧全ての神々の 王、オーディンである。  彼はユミルとその仲間の、増え続ける巨人族を憎み、兄弟と共にユミルを殺し、その血 の流れの洪水で巨人族を滅ぼし、その身体から世界を造った。  彼らは、死したユミルの肉塊からは大地を、壊れていない骨からは山脈を、歯と粉々に なった骨のかけらから岩や小石を、渦巻く血からは海と湖を、頭蓋骨からは天空を造り、 ムスペルから飛んでくる火花で太陽や月や星をそれに添えた。大地の岸辺にはユミルの眉 毛を使って垣根を造り、霜の巨人族の生き残りを、そこヨーツンヘイムに住まわせた。内 部の大地はミッドガルドと名付け、トリネコの木から造ったアスクと言う男と、ニレの木 から造った女エムブラを始まりとする人間の種族に与えた。  オーディン達は、彼ら自身の神の王国アースガルドをも築いた。それは巨大な、ミッド ガルドの高見に輝く宮殿で、魔法と優れた技術によって造られた三つの色彩の燃え立つ虹 の橋ビフレストによってミッドガルドと結ばれ、オーディンと神聖な十二人の神と同じく 十二人の神聖な女神達が住んだ。  そして世界は、木の中で最も偉大であるトリネコの木ユグドラシルの枝々の下に広がり、 その三つの根は、アースガルド、ヨーツンヘイム、そして、冥界(死者の世界)であるニ ヴルヘイムに巡らされ、それぞれの下には泉がある。運命の泉であるウルドの泉と、賢い ミーミル神が守りその水を飲む者に洞察力を与えるミーミルの泉、悪竜ニドヘグが死者の 肉をついばんでいるフヴェルゲルミルの泉とである。  自らで築いたアースガルドであったが、神々の生活は決して安寧を保ってはおらず、 巨人達との闘争や神々の旅先におけるトラブル等数々の出来事に満ちていた。  そして、その影にはアース神族の一人、ロキの姿が常に見え隠れしていた。ロキは両性 具有の美しい容貌を持つ奸智と偽りの神であり、他者の災難と苦しみを何よりの楽しみと していた。  オーディン等アース神族と、ヴァン神族の魔女グルヴェイグの死に端を発する騒乱の渦 中で破壊された城壁の修復の際に、ロキの発言はアース神族を窮地に陥れたが、自らの奸 智によりこれを救う。  また、オーディン、ヘーニル神と共に旅をした際に、巨人シアチの罠にはまり、女神イ ドゥンと彼女が持つアース神族の永遠の命の糧である、永遠の若さを蓄えた『イドゥンの 林檎』と呼ばれた黄金の林檎を奪われてしまうが、フレイヤの鷹の衣を借り鷹へと姿を変 じ、シアチの家からイドゥンを胡桃の実に変えて助け出し、再び神々を救う。  また、ある時には、トールの妻である女神シフの寝室に入り込み、その美しい髪を切っ てしまうが、ドワーフ族の国ニダヴェリールに赴き、彼らからその代りとなる金細工の髪 を含む、神々の重要な宝物を手に入れて戻る。その中の最高のものが、最強神トールの所 持している鎚ミョルニルである。  更には、オーディンの息子であり、最も美しく最も愛されていたバルデルを、彼の弟、 盲目の神ヘズの手により殺害させてしまう。  神々の怒りを買ったロキは、そのために捕われ、岩に繋ぎ止められて、蛇の毒液を滴ら せられるという罰を与えられる。彼の妻である女神シギュンが木の鉢でそれを受けとめて いるが、毒液に満ちた鉢を捨てにいく間、ロキは毒液を浴び身悶えして苦しみ、それが地 震となり大地を揺らした。  しかし、捕われとなる以前に、ロキの行為は既に、神々を滅亡の淵へと誘う導き手を造 りだしていた。  それが、ロキの妻シギュンではなく、女巨人アングルボダとの間にもうけた三人の子供 である。  その長子が、魔狼フェンリルであり、第二子が世界蛇ヨムルンガンドであり、長女が冥 界ニヴルヘイムを司る、腰から下が腐った主、ヘルである。  そして神々の黄昏〜ラグナレク〜が訪れる。  [斧の時代][剣の時代]を経て[風の時代][狼の時代]が到来する。まずミッドガル ドにその兆しが現われる。  全てが三冬に渡る戦争で破壊された後、フィムブルヴェト[冬の中の冬]がミッドガル ドを席巻する。吹き流れ去る雪の雲は荒れ狂い、輝く太陽も助けにはならなかった。  夏のない冬が三度続き、そして、最後の時が始まる。  天翔ける狼のスコールが太陽を、ハティが月を飲み込む。  大地が震え、巨木は揺らぎ倒れ、山々は揺れてぐらつき崩れ落ちる。そして、凡ゆる戒 めが弾け飛び、捕われの身であったフェンリルもロキも自由を取り戻す。海はそそり立ち、 波は荒れ狂う波涛となり、海岸に攻め入る。  世界蛇ヨムルンガンドが激しく怒り、もがきながら、陸を目指す。一息毎に毒液が吐き 出され、大地と天空の全てがその毒により腐食していく。  波高い海にはナグルファル〜死者の爪で造られしおぞましき船〜が束縛から脱し、船首、 船体、船尾、船倉に巨人達を乗せ、帆を進める。ロキの姿もその上にある。  フェンリルもその巨大な口を開け放ち、下は大地を削り、上は天空を圧し、瞳の中で 燃える炎を鼻から吹き出して進み来る。  世界は狂乱の度を深め、炎の世界ムスペルの息子達が火の巨人スルトをその先頭に、 南から進軍してくる。スルトの手の剣が、太陽の様に炎を纏って輝く。彼らが、虹の橋 ビフレストを渡り来るその後ろで、橋は轟音と共に砕け落ちる。  全ての巨人とヘルの住人達、フェンリルとヨムルンガンド、スルトとムスペルの子等が、 神々の野、ヴィグリードに集まる。  神々もこれに呼応して動く。  神々の見張り番たるヘイムダル神は、九つの世界全てに響き渡る大きな角笛ギャルホル ンを吹き鳴らす。主神オーディンは黄金の兜、輝く鎧を纏い、グングニルの槍を手に八脚 の馬スレイプニールを駆り、ミーミル神の助言を受けて軍を動かす。  オーディンの従者で女戦士たるヴァルキリー達が、ミッドガルドから天空に連れてきた エインヘルヤル〜一騎当千の戦士〜達が鎧を纏い、剣と盾と槍とを握り、ヴィグリードへ と行進する。  そして、戦端が開かれた。  トールはヨムルンガンドと相対し、苦戦の末これを倒すがヨムルンガンドの吐き出す毒 液のため、九歩だけよろめき、自身も息絶える。ロキとヘイムダルは互いが互いの死を招 く。冥界の猟犬ガルムはオーディンの息子で最も勇敢なチュール神の喉元に飛び掛かり、 相打ちとなって倒れる。豊穰神フレイは火の巨人スルトと戦うが、スルトの手になる劫火 の剣に対抗すべき自身の輝く剣を召使いのスキールニルに与えてしまったため敗者の位置 につく。オーディンはフェンリルとの戦いに破れ、巨大な顎に捕えられ飲み込まれるが、 オーディンの息子ヴィーダルがフェンリルの下顎を踏み、上顎を掴んで引き裂きその敵を 取る。  そのときスルトがあらゆる方向に炎を投げつけ、アースガルド、ミッドガルド、ヨーツ ンヘイム、ニヴルヘイム等の九つの世界全てが灼熱の溶鉱炉と化し、炎が世界を覆う。  全ての物が灰燼に帰し、全ての生き物が死に絶え、空には星がなくなり、大地は引き裂 かれ海に沈んだ。  しかし、破壊の後には再生があった。  やがて大地が水の中から明るく青々と蘇り、穀物は野に実った。  オーディンの息子ヴィーダル神とロキの息子ヴァーリ神は生き延び、かつて神殿の立っ ていたイダヴェルの野へと帰り来る。  トールの息子モージ神とマグニ神は、そこで彼らと出会い、父親のミョルニルを受け継 ぐ。バルデルとヘズは死者の世界から帰還し、イダヴェルの野を歩く。  ユグドラシルの樹の奥深く隠れた二人の人間リーヴ[生命]とリーヴスラシル[生命の熱 望]はスルトの炎を逃れ、その子達がまた子をなす。  至る所で新しい生命が生まれ、大地のあらゆる所に生命が溢れ、それがこの世の終わり で、始まりとなった。  生命溢れる緑の大地に息づく神々、人々、生き物達の姿を描いた九枚目の最後の絵の前 で、イコルはそう語り終えた。 「そして、神々の時代が終わり、人の時代となる…か」  それは、克也自身も知っている神話の出来事であった。 「神々の歴史も人の世と同じく、闘争の歴史ですが、闘争の中でこそ生命は輝く。しかし、 人の世の再生は神話の様にはまいりません。それ故より輝くはず。そうは思いませんか?」  取り込まれる様にイコルの声に聞き入っていた克也に、豊かな金髪を揺らしながら振り 返ると、イコルはそう訊ねた。  その妖しい魅力を宿す黒耀の瞳に、何かしら単純な質問以上の雰囲気を感じ取った克也 は、ブレザーを肩に担ぎ直しながら曖昧に返答した。 「そうですね」  果てる事無い民族紛争や環境破壊等、様々な軋轢が噴出する今の時代ではあるが、それ を神々の世界の終焉と重ねるのは、克也には大それた想像に思えた。もし、スルトの破壊 の炎が現在に形を変えて存在しているとすれば、何がそうなのであろうかという考えも 克也の頭の中を過ったが、それは一瞬の事でしかなかった。  それ以上、その事について会話を続けるつもりはないらしく、イコルは次の絵へと歩み 寄りながら、説明を続けた。 「次の絵は、ユリエ・セラムという壮年の画家の絵で、トール神がロキ神と共に、ウトガ ルドという巨人の国へ遠征した時をモチーフに描かれています」  更に、一時間程、様々な品の説明を受けた克也は、美術館の閉館の時間に後押しされ、 イコルに礼を言って帰宅の途についた。   

     

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