序 章 『月下の序章(プロローグ)』
薄闇に沈む部屋の中に、カーテンを開け放った窓から、引き絞られた弓の様な下弦の月
が銀色の光を注いでいる。
白一色の壁面の中、全ての物は月明りで十分にその形を窺う事が出来た。対照的に黒一
色に統一された家具類の一つ、ミニタイプのオーディオからは緩やかな曲の調べが部屋の
中へと流れ出している。
八畳程の長方形の部屋の中央、ジーンズにややハイネックになった厚目の袖なしシャツ
姿で壁に寄り掛かりながら、透明な液体を氷で冷しつつ口へと運んでいる柊 克也がこの
部屋の主である。短めに切り、乾くに任せた髪形、やや濃い眉、瞳は優しげで、やや四角
い顔だちの中の口と鼻は特徴は少ないが、美的には一般レベルのやや上、中の上である。
シャツから出ている腕は太くはないが、贅肉が少なく筋肉質である。
克也がこの部屋の主たる事を示すためには、月になにがしかの費用が必要ではあるが、
五年前に事故で、世界を違えた両親の残した遺産のお陰で、少なくとも大学卒業までの三
年と僅かな期間、つつましくやって行くことは出来る立場に彼はいた。
未成年の分際で酒を飲むことは、本来ご法度であるのだが、祖父母からの好意の贈り物
であるため、秋の夜長を物想いに耽るための友として選んでみたのであった。
「それにしても綺麗な人だったな…」
克也は、月明りの中に浮かぶオーディオのささやかな蛍光色の表示から、視線を窓の外
の月へと移しながら、独り言をこぼした。
克也の頭の中には、昼に見た北欧の芸術品の数々ではなく、偶然出会った二人の女性の
姿が焼きついていた。
大きくウェーブを描いた豪奢な金髪と黒色の瞳を持った、凄艶な女性と、癖のない銀色
の髪と、青い瞳を持った清艶な女性。
忘れることの方が困難な、神話の女神の雰囲気さえ感じさせながら、対極になる性質を
内包している事が一目で分かった。
女性に対して、いささか片寄った審美眼を持つ克也にしても、普遍的な美しさには素直
になれるのである。
芸術品や美術品を目にすることを好む所以である。
突如、黄金の光の脈動が部屋の中に波紋を広げた。鈴が風に鳴るようなそんな優しげな
音色と共に。
「なんだ?」
視線の先には、安物の紺色の夏用ブレザーが架かっていた。冷房装置の一般化により、
至る所に気温差が出来ている都会の夏には必需の品である。
オーディオを止め、グラスを置いて克也は立ち上がった。グラスの中で溶けかけた氷が
カラリと乾いた音とともに僅かに位置を変え、それと共に部屋の中の光の配置も変わる。
ブレザーをハンガーごと壁から外し、一瞬ためらった後、光を発しているポケットの中
へと手を入れた。ポケットの中を探ると、指先には予想外の硬い感触があった。ブレザー
を壁へと戻しながらゆっくりと取り出したそれは、手のひらほどの金輪、正確には、精妙
巧緻な装飾がされ、素晴らしい模様を彫り込まれ、絡み付く様に編まれ、捻じれながら流
れている、金属の不思議な様を持つ黄金の腕輪であった。
「何で、こんなものが?」
克也には盗賊の趣味はなく、自分の所有物以外が掌中にある事に全く心当りがなかった。
よく見ると、光の輪の中に同じ様に光を宿した小さな粒があった。
こちらは、克也の記憶にあった。
小学校以来、御護り代わりに持っている金細工で、いつ手に入れた物であるかはもう忘
れているが、何とはなしに気に入って、傍らに持っているものである。
形は果実に似ているが、大きさは小指の先程もない。
引き込まれるように見つめる克也の目の前で、光の脈動も音も徐々に速くなり、完全な
光の塊と化した。
音が止った。
しばしの静寂の後、腕輪から光が流れた。
ゆっくりと、滴の様に溢れ、そして床へと滴り落ちた。
毛の短いグレイの絨毯の上に落ちた光の滴は、ゆっくりと同心円状に広がっていく。
徐々に輝きを失っていく光の後には、手にしているものと寸分変わらぬ鈍い黄金の輝き
を放つ腕輪が残っていた。
声もなく見つめる視線の下では、光の滴の流れが続いていた。
次々に滴り落ちる光の滴は、絨毯の上で八つの腕輪へと姿を変えた。手にした腕輪もそ
れと同時に光を失った。
『逃げてっ!』
「くうっ!」
腕輪が光を失うと同時に、克也の頭の中で誰かの思念がはじけた。頭を鈍器で殴られる
ような衝撃に想わず頭を押さえる。
更に一瞬の間をおいて、部屋が月の光の恵みから切り離され、けたたましく甲高い破砕
音と共に、二つの黒い影が部屋へと飛び込んできた。
砕け散ったガラスの破片が絨毯の上へと降り注ぎ、月の光を得て新たな星図を作るが、
克也の目は、次々と間を置かず起こる怪事に追従しえず、茫然と黒い侵入者へと注がれて
いた。
望まれざる乱入者が、四階の分厚いガラス窓を叩き割りながら、易々と侵入を果たした、
と言う事実よりも、その姿の異様さに克也は捕われていた。
月光を背負ったシルエットは人に非常に近く、身長百七十五センチの克也よりやや大き
い程度ではあったが人間ではなかった。シルエットの中、赤い輝きを宿す瞳は、人と同じ
位置に配置されてはいたが、深い毛の奥にあった。その下には、鼻を伴い前へと迫り出し
た顎が、黄色く汚れた牙を従えていた。
「グルルル…」
その口から唸り声が漏れた。人の口で発せられるものとは、明らかに異なるこもった唸
り声である。
「人狼…だと?」
我知らず克也は、唸るような声を零した。
克也自身、個人的に非常識な部分を持っており、更に非常識なことに、魔法使いや、超
能力者なるものに知人がいるが、人間という枠を越えて非常識さを持つ者を目の当たりに
したことは始めての経験であった。
上半身は裸であるくせに、下は破れかかったスラックスを履いている姿が、克也に妙に
アンバランスな印象を与える。そのスラックスの下の盛り上がる筋肉を動かし、ガラスの
破片を踏み付けて、人狼は一歩を踏み込んだ。
掌中の物をジーンズの後ポケットへと収めながら克也も身構えた。
狼の声帯が人語を発せるかどうかに疑問はあるが、相手は何も語らなかった。問答無用
の鬼気が、克也の全身に叩き付けられる。
一瞬だけ怯んだが、相手の鬼気に反応するように、克也の心が落ち着きを取り戻してい
く。それに従い、無頼な相手に対する敵愾心が心中で水位を上げた。
不意に影が揺らいだ。
瞬息で間を詰めた人狼の一体が、鋭い爪のついた左腕で、克也を横薙に襲う。
「しゅっ!」
顔を襲った爪を、左に身を沈めてかわす。短めに切ったばかりの頭髪の一部が、宙に舞
った。短く息を吐き出しながら、身を沈めた流れをそのままに、回し蹴りを相手の脇腹へ
と叩き込む。
自然に身体が反応してくれたことに、克也自身驚いていた。
小学校の頃から空手を続け、今では初段の腕前となっていた。大学に入ってからは、超
能力者を称する先輩に指導を受けて妙な体術まで身に付けていた。何の為にとは思ってい
たが、基本的に身体を動かすことが好きな克也は鍛練を欠かしたことがない。
僅かに入ったアルコールでやや興奮気味の精神に、人外の侵入者への怒りが火を付けて、
放った呵責ない一撃のはずであった。
しかし、克也の右足は、ゴムのタイヤを蹴ったような堅い衝撃と共に、相手の脇の下に
捕われていた。
「くそっ!」
次の瞬間、克也は身体を反対に捻るようにして捕えられた右足に体重をかけて左足で床
を蹴り、そのまま、相手の鼻面を蹴り付けた。
「ギャウッ!」
さすがに弱点は犬族と同じであるらしく、もんどり打って倒れ、テーブルを弾き飛ばし、
卓上のグラスも飛ばす。
倒れ込むその一体の上を新たな影が飛び越え、克也に襲いかかる。
体勢を立て直しきれない克也は、床から起きかかったまま、身体を捻り、壁のブレザー
を掴むと影に向かって振るった。ブレザーは狙い違わず、相手の顔へと巻き付く。
克也を狙った新たな爪は、ややそれたが、ジーンズ地のズボンを易々と切り裂いた。
「くおっ!」
覆い被さるように倒れ込んでくる人狼を、弾き帰すようにブレザーごと、克也は蹴り飛
ばした。
ダメージを与えることは出来なかったが、相手を押し返すことには成功した。
人狼は、体勢を崩さず音もなく降り立つと、昼の事件を含み、二度も持ち主に足蹴にさ
れた不運な服を、忌ま忌ましげに引き裂いた。
克也も、間髪を入れず、反動を付け立ち上がり、再び構える。
克也の知る幾つかの伝承によれば、狼男の類はほとんど目が見えず、嗅覚に頼って行動
すると言うが、目の前の人狼には視覚上のトラップも役に立ったらしかった。
克也の右足の脇に血がにじんでいたが、力を入れてもそれ以上の痛みを感じることはな
かった。
「…まだ、いける…」
狭い部屋の中では、一対一以上の戦いになることはないが、人外の化け物相手に勝ちを
収めることが出来ると自惚れられるほどの自信は克也にはない。逃げるに如かずであるが、
状況を打開することすら難しい。
「どうする…か!」
攻撃に移ろうとした人狼達の機先を制して、克也は壁のスイッチを叩くようにして入れ
た。更に、掌中の物を投げつける。克也の手を離れ、人狼へと飛んだのは、起き上がりざ
まに拾っていた床の金輪の幾つかであった。
金輪を人狼がはたき落とした瞬間、部屋の中の明度が急変した。
いつもは点きの悪い蛍光灯が、日頃の恩を返すように、瞬時にして点灯したのである。
目を眩ました人狼の隙を見逃さず、克也は身を翻した。
克也の部屋は一般的この上ないワンルームマンションである。克也は一気に玄関まで走
ると、靴を引っ掛けながらドアを開け、半身になって擦り抜け、ドアを閉じ、鍵もかけた。
どれだけの知能があるのか、克也に分かるはずもないが、時間稼ぎくらいにはなるであ
ろうとの予想をしての行動であった。
克也は目の前の階段へと走り、手摺りを飛び越えて、一階下へと身を踊らせた。
ズン、と言う衝撃が、着地と同時に克也の両足を伝わる。
しかし、その瞬間に靴がすっぽりと克也の足を飲み込んだ。克也は同じことを二度繰り
返し、一階に降り立つと、マンションの外へと出た。
かなりの騒々しさを与えたはずであるが、都市の人間の無関心さを象徴するように、数
ある扉の向こうから、たった一人も顔をださないことが、かえって克也には有り難かった。
何処へ行こうか、僅かの間迷ったが、左に一キロ行ったところの交番よりも、右手に三
百メートル程の所にある私鉄東急東横線の反町駅の方を選択した。僅かな差だが、一キロ
も先にある場所は、今の克也にとっては遼遠すぎるものであった。
「くそっ!何だってんだ!」
悪態をついてみても、状況は一向に好転しない。
克也は、駅に向かって全力疾走を開始した。
街灯の下の光から離れた場所の暗がりが全て、人狼の影のように克也には思えた。
まだ人の多い駅前を、驚く人々の間を縫うように駆け抜ける。
駅の手前で一度振り返ったが、それらしい影は克也の視界には無かった。
克也は切符を買い、私鉄の改札をくぐった。この私鉄は、渋谷と横浜方面を結んでいる。
とにかく、今の克也は、この場を離れあの妙な化け物の類から逃れる必要があった。
「桜木町まで行くしかないか…」
横浜方面の終点である、桜木町まで行き、そこから誰かに連絡をとって更に遠くへと考
え、克也は列車へと乗り込んだ。
大きく息をついた克也が、もたれ掛かるように席に腰を下ろすのと同時に列車が動きだ
す。克也の腕時計は十時四十二分を指していた。血染めのジーンズを履いている克也に、
乗り合わせた人々が奇異の視線を向けるが、克也と視線が合うと慌ててそれを外した。
「それにしても…」
当然のことながら、一体何者が、と言う疑念が頭から離れない。一般生活者のつもりで
いる克也には、身に覚えなど何処を切っても出てくるはずもない。
大学の期末試験の後の、秋の連休を文化的に過ごそうと決め、美術館へと足を運んだそ
の同じ日の夜とは思えぬ状況であった。克也自身の意向は全く無視されての事である。
ふと思いついて、克也はジーンズの後ろのポケットの上から、腕輪があることを確認した。
「これのせいか?」
そうとも思ったが、人狼は投げつけられた腕輪には見向きもしなかった事を、克也は記
憶していた。目的がこの腕輪にあるのであれば、似たような物を投げつけられれば、多少
の斟酌があってもよさそうなものである。
自称、超能力者の先輩であれば、きっと信じて迎えに来てくれるだろう。そう期待して、
克也は、列車の揺れに身体をまかせて目を閉じた。
列車の外を、追いかけるように家々の上を渡る黒い影に克也は気付いてはない。
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