ディ フライラッセン
第一章    解き放たれた者


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[ 風の心 ] or NEXT STORYor GRAPHIC(挿し絵)

   ジャリ。

   その男は、足元の黒変した破片を無言で踏み潰した。それは黒の革靴の底で、

  ささやかな音と共に脆く崩れた。

   周囲を見回す。降り注ぐ陽光を疑いたくなるような惨憺(さんたん)たる

  有様であった。

   灰色のコンクリートは、砕かれて与えられた形を失い、鈍い光を放つ金属の

  成れの果てと混在している。木々は折れ、薙ぎ倒され、または、根こそぎ

  掘り出されている。大地は抉られ、土肌を露にしている。

   その場を片付けるために忙しく者たちの傍らに未だくすぶる残り火が、

  焦げ臭い匂いを生暖かい風に乗せて運ぶ。

   その風が、緩く男の長い銀色の髪を揺らした。

   長身にベルトをしめたグレイのコートを纏い、片手をポケットに入れている。

   無造作に長く伸ばしながらも、美しい輝きを放つ髪の奥の青い瞳が束の間覗く。

  年令の判別しがたい顔だちである。青年と思えるが、それには落ち着きが

  有り過ぎた。感情に乏しい瞳が振り返った。

  

  「…約束を違(たが)えたようだな」

  

   振り返った視線の先には、二人の男が立っていた。

   同じ重厚な紺のスーツに身を包み、コートを肩にかけているが、両者の

  貫禄には絶対的な差があり、間違いなく一方は他方の従者的な存在と確認できる。

   無言で立ち続けるがっしりとした大柄な男は、黒々とした頭髪、太い眉、

  立派な口髭が彫りの深い四角い顔を飾り、映画俳優を思わせる。しかし、

  の中の細い目は、冷たい光を放っていた。

   一方の男は、小柄で異相に思えるほどに額が広く、金髪を七三に分けている。

  顔の造作は、構成要素である目も、口も、眉も小さく、唯一大きい鼻の

  周囲に寄せ集めた様な印象を受ける。これも小さな、ヒットラーと言うよりも、

  チャップリンを思わせる口髭を伴う口が動いた。

  

  「言い掛りだな。我々も、このような事態には驚いている。原因も調査中だ。

  大体にして、貴様が協力をしていれば、こうはならなかったのではないか?」

  

   勘に触る、印象通りの甲高い声に、青年は答えなかった。男はその沈黙を

  自らの発言の肯定と解釈し言葉を続けた。

  

  「貴様が、我々に渡した『素体(アイン ケルパァ)』についても、我々には

  充分な情報は得られていなかった。貴様はこうなることを知っていた

  のではないか?」

  「…」

  

   更に言葉を重ねようとした男を目で制し、大男が声を発した。威圧感を持つ

  低く響く声であった。

  

  「今は、情況の確認が最優先する。原因の究明と素体の回収に協力しては

  貰えまいか?」

  「シュヴァルツ閣下そのような…」

  

   シュヴァルツの言葉に青年は、身体ごと振り返った。

  

  「前にも言った筈だ。協力は『彼女』の安全を最優先。

  『精霊晶(アルファクリスト)』には傷を付けぬこと。それを違えたからこそ

  起こった事だ」

  

   シュヴァルツとは対照的な、美しいアルトの声が、彼の威圧感を

  そよ風の様に受け流して答える。

  

  「無駄だった様だが、これで終りだ。協力するべきことは何もない」

  

   そう言うと、青年は彼等に背を向けて歩きだした。それ以上、

  言葉を交わす時間すら惜しむように。

   瞬間、小男が動いた。

  

  「待て!」

  

   言葉と同時に銃声が響き、青年の足元の破片が砕ける。

   青年の歩みは止らない。

   小男は、それを強がりと解釈した。彼の経験によれば、

  彼の力を裏付けている鋼の武器に屈しなかった人間はいない。

   彼は引き金に更に力を加えた。片足を削れば、自らに許しを請う筈である。

   二度目の銃声と共に、青年のコートの一部が輝き、苦鳴が上がった。

  

  「ぐあっ!」

  

   だが、それは、青年のものではなかった。

   青年のコートの輝きが誘うように、堅い大地が、俊裂な勢いで盛り上がり、

  一方は青年の盾となり銃弾を受け止めた。更にもう一ケ所、小男の

  足元から伸びた、大地の槍が男の銃を持つ右手を、貫き宙に縫い止めていた。

   赤い滴が、落した銃の上に染みを作る。

   土の盾が崩れ落ちる向こうで、青年の周りを三つの輝きが取り巻いていた。

  

  「『哲学の卵』の熟成まで時間も残り少ない、行くぞ」

  

   輝きに語りかけ、振り返ることなく去る青年を、小男は睨み付ける事しか

  出来なかった。

   青年が森の中へ姿を消してから、小男は大きく右手をる槍から手を

  引き抜いた。

  

  「ぐうっ!」

  「余計な事をしたな、ハーフェン。銃などで従わせることが出来るのであれば

  苦労は無い。手当てを受けろ」

  

   シュヴァルツの言葉を待っていたように、兵卒が走り寄り、ハーフェンに

  てきぱきと応急処置をして行く。同時にシュヴァルツの一瞥を受けた土槍も

  崩れ落ちる。

  

  「奴は一体…」

  「…三十年前に会ったときから、あの姿は変わらぬ。表層の変化を捉える

  科学とは異なり、事象の根源を探求する者だ」

  

   そう言う者を何と呼ぶのか、彼の知識にはあった。

  

  『アルケミスト』

  

   ハーフェンは眉をしかめた。あからさまに発言を疑う表情であった。

  

  「今回の計画は、荒廃した森林を自然の力を増幅することで復旧する

  と言うことが立前だ。従来の研究成果の実現が足踏みをしている

  情況の中、偶然にも彼に接触をとる事が出来た。その時私は思った。

  汎知に満ち、自然の精霊を四つに分類した彼であれば、

  それをすることも可能はないかとな」

  

   一度、言葉を区切ってシュヴァルツは、焦げ臭い空気を深く吸い込んだ。

   軍人である自分が、自然復興に携わるなどその矛盾した情況は

  シュヴァルツには滑稽にすら思えた。だが、その成果が軍事に転用

  できるものであるかぎり、彼の管轄に置いておく必要があったのであり、

  そしてそれ以上の意味も彼にはあった。

  

  「ここで、彼を手放す分けには行かぬ。せめて代わりが見つかる

  迄はな…」

  

   目的を実現する手段は、幾つ合っても構わない。駒は多いほうが

  策を巡らし易いというものである。

   使えるものは全て武器とする。人の業を平然と踏み潰す男は、

  氷の視線をハーフェンに移すと命じた。

  

  「では、情況の報告をしろ」

  「…は、期日までの間もない為、精霊力の取り出しに所長が業を

  煮やしていたのは事実ですが、多少裏が有りました。実行者は以前から

  所長と確執のあった副所長のゲッティンゲンです」

  

   麻酔の利き始め、感覚の無くなった右手を揺らしながら、

  ハーフェンは左手で、一枚の写真をシュヴァルツに渡した。

  その写真には銀縁の眼鏡をかけた、知的で整った顔だちの壮年の男が

  白衣を着て写っていた。現場の軍人としては何とか及第点を取れる程度

  であるが、ハーフェンの情報収集能力だけは卓越していた。

  ただし、そのための手段は選ばない。

  

  「成果の上がらぬ事の責を問われ、行き詰まった彼は指示書を書き換え、

  禁を犯して、その成果を得ようとしました。それだけではなかったのは、

  ネオナチの党員と接触があったため、『素体』を高額で渡すよう要求も

  されていたようです」

  「つまり、成功すれば問題はなく。失敗の場合には『素体』をネオナチ

  に渡す…ということか」

  「そのようです。賭けのつもりだった様ですな」

  「…度しがたい奴等よ。ただのギャングに過ぎぬ奴等が手にしたとて

  何の価値も無いものを…コアボックスの回収はどうなっている」

  「それはまだですが、問題ないと思われます。調査中ではありますが、

  地下の被害は最大深度で数十メートル程度。二百メートルの地下に

  独立電源で造られたデータバンクに影響はありますまい」

  「あれには凡ゆる実験施設のデータが温度変化と大気組成に至るまで

  リアルタイムで保存されている。発掘を急げ。そして『素体』には…」

  

   そこで一度、シュヴァルツは言葉を切った。

   何かがハーフェンの背を不快なリズムで滑り下りたが。

  無言で次の指示を待った。

  

  「…シュピッツ・ナーデルのファルベ・トゥルッペを使え。奴より先

  に素体を回収するのだ」

  

   ハーフェンは目を剥いた。

  

  「彼等を使うのですか?…それは…」

  

   軍の特殊部隊針師団(シュピッツ ナーデル)の中でも、更に秘密裏に

  能力を開発された部隊である色彩部隊(ファルベ トルッペ)は、

  構成員の能力故に造られている。構成員に欠損が出来たとしても

  おいそれと組織を再構成することは出来無い類のものである。だが、

  コードネームで互いを呼び、素性すら明らかでない、能力を優先して

  集められた彼等は卓越した作戦遂行能力を持つ代わりに、精神や理性の

  一部が欠けている部分がある場合がある。成果と被害とを秤にかける

  のも頷ける。

  

  「多少の被害には目をつぶれ。時間が優先する」

  「分かりました」

  

   ハーフェンは首肯した。だが、彼はそれだけを遂行するつもりは無かった。

  ただ与えられた命令をこなすだけでは今の地位は守れないのである。

   二人は、次の行動に移るべく、廃墟を後にした。

  

  

  

  

  

  

  

  

      夕刻に飛行機はフランクフルトに到着した。飛行機から見る都市は、

  夕陽が建物のシルエットに栄え、蒼茫とした夕暮れに異郷の趣を添えていた。

   日本とドイツの時差は、夏時間(サマータイム)で七時間。

  日本が正午の時には、ドイツは、七時間おくれの午前五時となる。

  日本を出発して予定どおりの約一二時間のフライトを経た機体は、

  日本出発の約五時間後、現地時間で午後七時にその車輪の跡を、

  黒々とドイツの滑走路に塗り付けた。

   フランクフルト国際空港はヨーロッパでも屈指の大空港であり、

  旅行者に必要な施設は全て整っていると言える。日本との直行便も含め、

  ヨーロッパ各都市からの便も多く、パリ、ロンドンからは一時間ほど、

  ローマからは約二時間ほどの距離にある。

   ライン河の支流である、マイン河の流れるフランクフルトは正式には

  フランクフルト・アム・マイン〜マイン河畔のフランクフルト〜と呼ばれる。

  ドイツの商業金融の中心的都市であり、街の中心に立ち並ぶ高層建築物は

  殆どが金融・銀行関連の建物で、マインハッタンとも呼ばれ、金融都市を

  良く言い表わしている。

   中世には、神聖ローマ帝国皇帝の選挙や戴冠式などの重要な儀式の

  行なわれた都市としても有名で、戦後近代的に生まれ変わったとはいえ、

  街の中心にはかつての栄華を偲ばせる大聖堂などが残り、昔ながらの

  居酒屋では、林檎酒を酌み交わし、ゲーテを語る人もいる。

   本日七月の末にこの地に降り立った日本人ツアーの一行は、

  広々としたロビーに集っていた。

   日本の空港ロビーと大して変わるものではない。十メートル近い高さ

  にある波形の天井にはしっかりとした梁が通り、中央には赤い複葉機が

  吊るされている。黄色と青のカラーリングで並ぶカウンターの上には

  大きな幕が幾つも掛けられ、巨大な車内吊りのポスターのようである。

  カウンターの前には小さな柱と紐とで人々に整列を促している。

  カウンターの前は大きなロビーとなっているが、そこかしこに立て札や、

  指示板、連絡板が立ち並んでいる。季節が季節だけにジーンズにTシャツ、

  ナップザックといった軽装の旅行客が目立つ。

   田村はその中でせっせとツアー客を集め、まとめていた。

   フランクフルト国際空港は、二階が出発口で、一階が到着口になる。

  地下にはSバーンと呼ばれる近郊電車が通り、取り敢えず、これを使って

  中央駅ハウフトヴァーンホフに行き、この街で一日を過ごすと言うのが、

  このツアー初日の予定であった。

  

  「結構涼しい」

  

   と言うのが、最初の望の感想であった。

   ドイツは西洋と呼ばれる地域に属しているが、東京から西進しても

  ヨーロッパ大陸ではなく、北アフリカに達する。日本最北端の宗谷岬を

  西進してもスイスの南端にさえ到達することが出来ず、更にアルプス山脈を

  越えて初めてドイツに到達することが出来るのである。この地理的な

  事情が、夏場のドイツに日本よりも長いそして、涼しく過ごし易い昼間を

  与えることになるのである。この気候は、特にドイツ人の精神的土壌に

  影響を与え、日本人の独特の感情としての、「侘び」、「寂び」の様に

  「メランコリー」を育み、文化にその色合いを添えてきたのである。

  勿論、海流や、風などの気候条件から実際の風土は決まり、年間の

  平均気温は北海道の中央部程である。

   夕刻に向けて、気温が多少下がるが、それは、元気な少年少女の

  活力を殺ぐことにはならない。

   桜紋達は早速行動を開始した。

  

  「美月さん、私達ちょっと上のロビーに行ってくるから」

  「はい、どうぞ」

  

   言うが早いか、人集めに奔走している田村を尻目に、四人は二階へ

  のエスカレータへと走っていった。

   エスカレータを降りた四人は当然の様に二組に分かれた。

   望と翠美はそのまま、奥の手摺りに腰掛け、正面のガラス越しに

  空港の風景を眺めた。早速、望は空港の風景を眺める翠美の姿を

  スケッチし始めた。ラフに描いた輪郭が育つように、形を整えていく。

   望が幼なじみをモデルに絵を描くようになったのは、絵を

  描き始めたのと同じころであるが、いつの頃からか、

  他の二人を描くことは少なくなっていた。

  

  「そういや、随分と桜紋や剛は描いてないな…」

  

   成長と共にそれぞれの時間を持つようになり、特に中学で桜紋と

  剛が陸上部に入ってからというもの望が二人を描いた事は、稀であった。

  

  「…」

  

   望が自分を描いていることに気付いてはいたが、翠美は何も言わずに

  黙って、外と望と交互に見ていた。

   翠美にとっては、こうして望と一緒にいて自分を見てくれている時と、

  望の為に何かを作っている時が最も楽しい時であった。望の持っている

  ブックカバーも、今の望のシャツも翠美のお手製である。

   一方、桜紋と剛は、空港内を見回しながら歩いた。

  

  「おい。望の奴また、描いているぞ」

  「いいのよ、翠美はあれで喜んでるんだから…。それより、

  あそこの売店に行きましょうよ」

  「もう、土産買うのか?」

  「ウィンドウショッピングよ」

  

   剛はどうせなら食べ物にしたかったが、それ以上の意見は出さず、

  連れだって売店に入っていった。

  

  「ふうん」

   そんな四人を美月はトランクケースに腰掛けて眺めていた。

  

  「いいな、喧嘩なんかしないんだろうな…」

  

   やや、寂しげに独り言を零した美月の背後では、丁度機内の座席も

  美月の背後であった長髪の青年が大欠伸をしていた。ふと、

  美月と目が合うと、言い訳のような言葉をかけてきた。青年の顔だちは

  整っていて、スラッとした長身であり、美男子の部類に属するが、

  一見だらしなく感じるくらいにくだけた印象を与える。

   ややハイネックのサマートレーナーにハーフコートを着ている。

  

  「いやあ、ドイツの空気は美味しいねぇ」

  

   目をしょぼしょぼと瞬きながらでは、説得力に欠けるその言葉にも、

  美月は笑顔を返した。

  

  「すみません、剛さん達を見ませんでしたか?」

  

   そこに田村が声をかけてきた。一通り確認が終わったと思ったら、

  確認した筈の人物がいないのであるから災難である。

  

  「ああ、彼女達なら、二階のロビーにいるはずですよ、ほら、

  戻ってきた」

  

   視線の先には、こちらに戻ってきた四人がいた。田村はほっと

  胸を撫で下ろした。

   社長の信任を受けているのはいいが、何も子供達だけで行かせ

  なくても。そう思はないではないが、彼の知る彼女達の両親は、

  至って楽天家で放任主義であるのは、今までの経験から熟知して

  もいるのである。

   彼は一瞬浮かんだ悩みを営業スマイルに隠すと、声をかけた。

  

  「さあ、では、参りましょう」

  

   元気良く声かけて一同を先導する。

   目を擦りながら、大きなアーミーバックを背負い、長髪の青年が

  下りのエスカレータへと歩き、桜紋、翠美、望、剛、美月の順で

  大きな荷物のお伴のように続く。

   そんな彼等の耳に幾つかの靴が床を激しく叩く音が聞こえた。

  

  「ヴェック(退けぇ)!」

  

   突然彼等の間に、男が走り込んできた。

   ドイツ語でかけれられた怒声を内容ではなく勢いで理解したが、

  避ける事は出来なかった。

   長い列を作らざるを得なかったツアーの一行を迂回する事を、

  追いかけられている男は出来なかった。

   列に飛び込んだ男は剛と望を左右に突き飛ばして通過した。

   擦れ違いざま、男のコートから零れた輝きが、スケッチブックを

  放り込んだ望の青いバックの隙間に滑り込むが、気付く者はいなかった。

   追ってきた二人の黒いスーツの男も、先の男が作った空隙を通り越して、

  更に追いすがり、視界の外へと消えていった。

   男はそれで、良かったかもしれないが、突き飛ばされた望の方は

  大変であった。そのまま、翠美、桜紋と将棋倒しに倒し、桜紋は崩れた

  バランスを取り戻そうと手を延ばした。

  

  「お、うあっ!」

  「あ!」

  「お兄ちゃん!」

  

   それは結果、青年をエスカレータの下に突き落とす事になった。

   不意を突かれ、起き抜けの鈍い反応で、しかも重い荷物を抱えていた

  青年は受け身も取れずにエスカレータの下まで落ちることになった。

  倒れた身体にカバンが重なったが身動きもしない。

   一瞬の沈黙が、田村の声に遮られた。

  

  「ど、ど、どうしっ!、」

  

   対応すべき立場にいる田村は硬直したまま、両手を頬にあてて、

  動転している。

  

  「田村さん!動揺してる場合じゃないよ!」

  

   少年少女は、エスカレータを駆け降りた。美月もそれに続く。

  

  「お兄ちゃん!」

  「動かさないで!」

  

   追い付いた美月が、身体に触れようとした桜紋を止める。

   カバンを退かし、そっと頭に触れる。血は出ていなかった。

  

  「医者を呼んでください」

  「田村さん!」

  「は、はいはい!」

  

   美月と剛の言葉に、田村は女性のツアコンに後を頼むと、

  人を求めて走り出した。

   平穏を願う彼の思いは、その出鼻を、予想もしない人物に挫かれる

  事になった。

   ゆっくりと身体をずらし、通り道を空けて、美月は改めて青年の

  身体を横たえた。頭の高さと向きを変えないようにだけ気を付け、

  そのまま、医者が来るのを待つ。

   黙ったまま青年の周りに集まる仲間の荷物を、珍しく気の利いた

  望が集め、邪魔にならないように移動していると、自分のカバンの

  スケッチブックの影に、透明な楕円柱が入っているのに気付いた。

  僅かにうっすらと皴の様な線が入っている。

  

  「なんだろう…これ」

  

   淡く光を放つそれは、クリスタルの筒を思わせる。

   光の中に朧に浮かぶ影に気付いた望が、よく見ようと覗き込む前で、

  鈴を鳴らす様な音と共にそれは弾けた。

  

  「うわっ!」

  

   一陣の光る風が望を煽り、思わず腕を眼前にかざして顔を覆う。

   覆った手を、恐る恐る退けると、そこには砕け散ったクリスタルの

  破片だけが残っていた。それすら、望の目の前で、風に吹き散らされる

  砂の様に崩れて消えていった。

   望は何度も目を瞬き、自分のカバンを覗き込んだ。

  

  「どうしたの?望君」

  

   かけられた声に振り返った望の前には翠美が自分と桜紋のカバンを

  持って立っていた。

  

  「え、あ、その、」

  

   望は目を擦りながら、翠美と自分のカバンとを交互に見比べた。

  何度見ても、望のカバンには彼の記憶にあるもの以外入っていなかったが、

  望の頬には吹き抜けた風の余韻が尾を引いていた。

  

  「いや、なんでも…」

  「そう?疲れたの?」

  「そう、かも…」

  

   そう答える望を、翠美が心配そうに覗き込みながら、声をかけた。

  

  「座って、田村さんが戻って来るのを待ちましょう」

  

  

  

  

  

  

  

  「気が付いたわ。良かった…」

  

   青年が目を開けた事を、見守っていた桜紋がほっとした声で報告した。

   白い部屋であった。

   急病人や今回の様な事故のあったときに対応する、空港専属の

  医者の部屋である。

   桜紋の言葉に、白衣を着た太めの女性が、ベッドに歩みより、

  ペンライトを目に当てたり、片言の日本語で簡単な質問をした。

  レントゲンによる診断には問題はなく、特に外傷も認められてはいなかった。

   頭の他に痛いところは無いか、気分が悪くは無いか、そんな内容で

  あったが、青年はぼんやりしたまま、素直に答えを返していた。

   部屋には少年少女と美月が残っていた。直接の加害者となって

  しまった桜紋は残ると言って聞かなかったし、彼女を置いて移動する

  幼なじみ達ではなかった。

   美月も桜紋達に付き添っていた。

   田村は他のツアー参加者を先に移動させる為に、連絡を取りに

  その場を離れなければならず、今は席を外していた。

  

  「特ニ、問題ハナイ。落チツイタラ起キテイイ。何カアッタラココニ

  テレフォンコールシテ」

  

   不安げに見守っていた一同に、微笑みながら振り返り名刺を渡すと、

  女性は隣の部屋へと出ていった。

   青年は、改めて部屋の中を見回し、桜紋達に視線を動かした。

   何故か視線が望の上で一時停滞した。暫し、望と望の背後とを視線が往復する。

  青年の目には、望の肩の付近に何かが写っていた。

   一同の視線が、望に集まる前に、青年が口を開いた。

  

  「?…君は、いや…なんでもない」

  

   青年は、自分の問い掛けを自分で中止し、再び視線を動かした。

   視線はしっかりしている。特におかしいところは見当たらないが、

  奇妙な不安が一同の中を回遊した。

  

  「俺の荷物あるかい?」

  「え、ええここに」

   そう言って、美月は彼のカバンを渡した。彼はベッドに腰掛け直し、

  美月には重たいそれを受け取ると、ファスナーを空けて、パスポートと旅行券、

  PDAを取り出した。慣れた手付きでパネルを操作する。

   言葉もなく一同は彼を見つめている。

  

  「やっぱり…」

  

   すぐに彼は手を止めた。

  

  「どうしたの?」

  

   桜紋が、ベッドに近づいて訊ねた。他の人も集まる。

  

  「この情況からすると、今、旅行中だよな。俺は日本人で、ここはドイツ」

  「あたりまえじゃない。一緒に日本から来たのよ。どうしたの?」

  

   青年は視線を電子手帳から外し、桜紋を見た。

  

  「驚かずに聞いて欲しいんだが…」

  

   一同が沈黙のまま、次の言葉を待った。

  

  「どうやら俺は…記憶喪失のようだ。あっはっは」

  

   頭を掻いて、苦笑いをしながら言い放った言葉に、一同は言葉を失った。

   青年は、驚かずにと言った言葉を律儀に守っていると判断し、言葉を続けた。

  

  「ここで、そんな事がばれると、旅行は中止になるだろ?どうせ、

  いつ戻るか分からない記憶なら、このまま旅を楽しんでおかなきゃ

  損だからな。と言う訳で、ここにいる人にはフォローして欲しいんだ。

  ここにいるって事は俺の知り合い何だろ?頼むよ」

  「そ、そんな…なんていい加減な…」

  

   望がようやく声を絞りだした。

   委細かまわず、青年は言葉を続けた。

  

  「パスポートとメモによれば、俺は不破 一人(ふわ かずひと)、

  二四才、大学院生、独身。細かいことは後で調べるとして、

  取り合えず宜しく」

  

   不破はベッドから立ち上がり、頭を掻きながらにやりと笑って、

  強制的に一同を事実隠蔽の共犯者に仕立て上げた。

   何故、そんな個人的な情報が細かく手帳に記載されていたか、

  疑問に思うものはいなかった。

  

  

       
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